はじまってもいなかったから

これから始めていきます

恋のヤジルシ

[ある日の日記の一部]

 

恋とはいったい何を指すのだろうか。

恋をしている。恋する乙女。恋煩い。これらの「恋」についての私なりの考えを共有しておく。

例えばA君とB子ちゃんがいるとする。AはしきりにB子との会話を楽しむ。このとき、相手の心をよむ超能力を有していることはないので、AはB子の内心を完璧には理解できない。間接的な、会話、表情でしか判断できない。あおして多くの場合女性という生き物は、それら内心を示すことはない。

こんな日が続いたある日、どうしたものか、AはB子を2人だけの空間に誘おうとするのかもしれない。だがここでAの性格が重要となり、肉食か、草食なのかで、誘うかもしれないし、誘わないかもしれない。誘うためにとても長い時間を要するのかもしれない。むしろ自分は男だけど誘われることを期待しているのかもしれない。だが多くの場合誘われるようなことは起きないのだが。

 

どこまで進展するのかはパターンが3つある。①関係性を維持する、②2人きりにはなるものの、そこで関係性を維持する、③2人という状況を完全に楽しみ、いわゆる「おつきあい」という関係性になる。

この3つのうち、「恋」に当てはまるのはどこだろうか。きっと共通するのだろうが、①、②だと僕は思う。③はかなり長期的に発展すると愛に該当するかもしれない。恋というのは、Aの一方的な(もし双方向性の矢印だったとしても)感情をただ内側でしまい込むことだ。

この先に道はあるらしいが、目隠しをされていて落とし穴があるかもしれないが、まったくわからない。だから進まない。むしろこの先に道はあるけど、ここにとどまっておくという選択肢に感情を高ぶらせることもある。

僕はかなりこういう性格がある。他人の事情を知ると、興ざめに陥ることがある。双方が込み入った話をせず、きれいなカードを互いに見せ合うという関係性がどれほど気持ちのいいことか。多くの場合はこれを「友達」と呼び、それ以上の②のような関係性を「親友」と呼ぶ。

 

恋するということはつまり、一方的な感情だと僕は思っている。別に誰かにとやかく言われることもない心の内の感情。浮いては沈む、そんなあいまいな、雲のようにつかみどころのない印象のするものだからこそ、我々はそこにはかなさ、青さ、尊さを感じて、思わず心動かされる。自分にもそういうことがあったな、と体験と重なってしまうこともあるかもしれない。美しさの上澄みのような小説を書こうと思ったら、ここを扱うことである程度道筋を立てられるだろう。