はじまってもいなかったから

これから始めていきます

暗い部屋の窓から見た太陽は物語的な光を放っていた

[ある日の日記の一部から]

 

小説を書こうと思った。

だけど、テーマを考えれば考えるほど、自分の生きる意味について何度も行きついてしまう。どうして今僕は生きているのか。なにを根拠に今僕は生きているのかが全く分からない。

 

原始的な行動として、眠かったら眠るし、おなかがすいたらご飯を食べたくなる。これは僕のDNAに刻まれた行動規範がそう言っているだけだ。マズローの3大欲求というわけだ。

そしてマズローはその上に社会的欲求、尊厳欲求自己実現欲求があるのだと主張している。これは僕の遺伝子に刻まれた行動規範だろうか。否、人間社会が積み重ねてきたものだろう。産み落とされてからのちに、人間社会が営んできたなかで作り出したものだ。

例えば動物園の象の花子が有名なったからといってパオンと鼻高々に鳴くわけではない。ただただ動物として動物をこなしているに過ぎない。人間という生き物は、ほかの動物と比べてあまりにも高性能な思考力を持ったせいで生きる意味についても考えなくてはいけない。ふと進化の過程で、自分の存在について深く考え、俯瞰し、悩む。そして間違いなくここにいるはずの自分を見落として、インドに自分を探しに行く。まったく意味が分からない。

 

そして僕はその状況にある。なぜ生きているのか。どうして今生きているのか。誰か教えてくれはしないだろうか、という発想がすでに生きるに値しない依存的存在であることの証明のような気がした。誰かのために生きる。その誰かはまた誰かのために生きる。だが、何某さんのために私は生きていますという人はかなりいると思う。特に全世界の母親は子供に対してそう思い、半分くらいの夫が嫁のため、そして子供のためにそう思っていると思う。結婚したことはないからそんなことは当然推測の範囲でしかないのだが。

しかしここで重要なのが、なぜ僕は今文章を書いているのかということだ。この行為はもはや三大欲求に迫るための手段ではない頃が明らかだが、社会を営む人間の根幹的行為ではなかろうか。自分以外の人格と話すことはあっても(ある場合では文通)、自分と向き合うのは文章を書くことがとても効果的だと思っている。この方法に僕は救われたし、日記という枠でさんざん現実の出来事をこと細やかに描写することでうっぷんを晴らしてきた。

今はというと、ただの文章ではなく、小説を書くために文章を書いているわけで、しかし、題材はまず目の前に佇む「生きる意味」という課題を解決せねばほかには手は付けられない。恋愛小説も冒険小説も推理小説教養小説もどれもかけたものではない。

 

ところがこの問題は厄介だ。どうしたものか、この問いはある種のトートロジーではなかろうか。生きているのにもかかわらず生きる意味を探す、というほど無意味なことはない。考えれば考えるほど行き詰ってしまう。

誰かのために生きているのが結局のところの結論なのかもしれない。長期休みで人に合わなさ過ぎてこんなくだらないことを考えてしまうのだろう。社会という大きな流れの中から少し外れたところにいるからこうなってしまう。そうだ、きっとそうだ。人間は暇すぎるとこんなことしか考えないのだろう。もう少し周りを見渡してみろ。世界はここまで広い。なぜ部屋に引きこもっているのか。誰かの役に立っているという実感はすごいものだぞ。人間は狭くなればなるほど価値が下がってくる。もうすこし社会に貢献してみとか、何でもいいから関わりを持つべきではなかろうか。たとえば○○であったり××のことについてだとか。

今は長期休みだから仕方がない、そう思って次の学期からはしっかりやるように。よし、ひとまず結論が見えてきた。

 

文章を書くということはある種の根源的疑問への特別な処方箋なのかもしれない。

 

高校生の時にさんざん生きる意味を問うていたとは思えないほどに、すっきりとものの数分で解決、あるいはある程度の心の整理がつくものだ。誰かが困っているようだったらおすすめしたいと思う。まあ今は誰にも会わないからこうなってしまったのだが。